7歳で誘拐され、アメリカ人家族に買われて養子として育ったタージ・ローランドさん。
タージ・ローランドさんは自分の半生を
「世界に変化をもたらすための希望をもつこと」
を共有して欲しいと本を出版されています。

7歳で誘拐され、突如アメリカに連れてこられ裕福な生活を送るのですが、インドの本当の母親や家族を片時も忘れず、絶対に探し出すという強い信念を持ち続けて夢が叶ったタージ・ローランドさんの半生を調べてみました!
目次
7歳少年が誘拐されアメリカへ売り飛ばされる

当時7歳のチェラムトゥ(のちのタージ・ローランド)は、インドの村から金目当てのインド人に誘拐され、キリスト教の孤児院に売られました。
その後、養子を待ち望んでいたアメリカ人夫婦に引き取られます。
それは、1970年12月雪の降る夜、チェラムトゥはアメリカユタ州ソルトレークシティに降り立ちます。
チェラムトゥは理解できない言語を話す白人に囲まれ、状況も理解できないまま恐怖に震えていました。
その後、新しい養父母の車に乗せられ、チェラムトゥは暴れて叫び、そしてすすり泣いていました。
最も恐ろしかったのは、今までの通常の生活からすべてを取り上げられ、まったく知らない世界に投げ込まれたことでした。
自分でも何が起こっているのかはっきりわからなかった
とタージ・ローランドさんは回想しています。
新しい家族と新しい生活
養父母のフレッドとリンダ・ローランドさんは、 すでにふたりの養子がいました。
当初は先に養子として来ていた子供より年下の女の子が欲しかったそうです。
ですが、ふたりはよく考え息子にすることにしたのです。
そして名前をタージ・ローランドと付けました。
タージはタミル語を話していて、まったく英語ができません。
それでも、一生懸命誘拐されたことを養父母に話していました。
ですが、当然養父母は理解ができませんでしたが、実の息子のように愛し、何不自由なく暮らせるように注力したのです。
新しい生活が始まったばかりの時は、環境がまったく違いインドでのタージは、土の床だった小屋に住み、食べ物を見つけるためにゴミを探し回る生活に慣れていたので、空腹にならないということが理解できなかったとのこと。
最初は、ベッドの下や枕の下に食べ物を隠していたのですが、養父母は「たくさん食べるものがあるんだよ」と優しく言ってくれていたそうです。
衝撃的な事実
養父母のフレッドとリンダは、息子をできるだけ早く慣れさせるために、レスリングとボーイスカウトに入れさせました。
約1年後、タージはレスリングトーナメントに参加し賞を獲得。

賞のリボンを見せ興奮して、タージはたどたどしい英語で養父母に言ったのです。
「ママに見せて、ママに見せて!」
リンダは、
「私があなたのママよ」と言いました。
すると、タージは
「違うの、インドのママに見せたい」
養父母のフレッドとリンダは衝撃を受けました。
孤児院から引き取るときは、当然両親がいないと聞かされ養子として引き取ったのに、タージには家族がいるとその時気づいたのです。
さらに、養父母はタージに、母親の他には誰がいたのかを聞くと、父親と兄妹がいたと話しました。
すぐに養父母は、息子として愛を育んで育てたタージを、もしかしたら手放さなければいけないかもしれなかったのですが、必死になって養子縁組の関係各所に手紙や電話をかけ捜索したのです。
ですが、結局は何も手がかりを得ず行き詰ってしまいました。
タージは新しい環境に順応すればするほど、インドの記憶を抑えていきました。
ですが、タージの頭の中では常に自分自身にしつこく質問をしていたそうです。
私は誰?
なぜ私は連れて行かれたのですか?
どうやって家に帰るの?
インドへの想い
タージはアメリカで暮らし、インドへの募る思いをずっと抑えていました。
1990年、タージはイギリスのロンドンで、あるミッションのために召集され、インド人が多いエリアであるアプトンパークの近くに住むように割り当てられました。
しかし、ユタ州の白人コミュニティで育ったインド人のタージは、最初、そのインド人住民が怖かったそうです。
なぜなら80年代初頭、タージが育った場所はタージが唯一のインド人だったのです。
アメリカ人として白人のコミュニティーの中で育ったタージは、久しぶりのインド人とのコミュニケーションをどのようにとればいいのかわからなかったのです。
しかし、インド人コミュニティの光景、音、匂いは、タージが長年抑圧してきた故郷の思い出を引き起こします。
服の色、食べ物の匂い、茶色の肌。
それは子供の頃の思い出を解き放つようなものでした。
アメリカに来てから初めてインド料理を味わい、母と家族と一緒に小屋にいることを思い出し、通り、川、公園で遊んでいるのを思い出しました
とタージは回想します。
そしてこの経験が、10億人以上の人口を抱えるインドで、家族を見つける確率は無謀に近いものでしたが、いつかインドに戻り、家族を探すことを誓ったのです。
タージの執念
1994年、養母リンダの不動産オフィスの下に新しいインド料理店がオープンし、オーナーのダニエルに息子を紹介しました。
なぜなら、息子タージの周りにインド人の友達がいて欲しかったから。
そしてすぐに、タージはダニエルと友達となります。
ある夜、タージはダニエルの車の中に妹プリヤの写真に気付きました。
それを見た瞬間、タージはすぐにこの女性と結婚するだろうと感じたそうです。
その後、ふたりは付き合うようになり、ある日タージは育ての親にプリヤを紹介します。
その時に一緒に子供のころのアルバムを見て1通の手紙に目が留まります。
そして運命的なことが起きたのでした。
十数年前に養父母が本当の母親を探すために、孤児院に何通も手紙を出して唯一返信がきた1通の手紙の字が、なんとプリヤの父親の字だったのです!
その返信された1通は、孤児院の院長に頼まれて英語が堪能だったプリヤの父親が代筆したものでした。
そして、プリヤはタージと一緒に本当の母を探すために結婚を誓います。
その後、1996年5月22日にタージはインド人女性のプリヤと結婚し、翌年、インドへ旅行に行きました。

そこで、タージはこの旅行で、自分の家族を探します。
最初に探したのは、誘拐され売られた孤児院。
ですが、すでに閉鎖され建物は放棄されていました。
次にタージが誘拐された時、最初バンに乗せられ、車を変えジープに約3時間ほど乗せられていたという記憶から、その孤児院から3時間以内にある町を探し始めました。
ですが、タージの手描きの地図と一致するものは何もありませんでした。
結局は見つけることができないのだと諦めかけた時、知人がタージの手書きの地図を見て、エロデという町を調べてみるよう提案しました。
その知人の仲間がその町を案内してくれるということで、タージにとってはこれが最後のチャンスと思いエロデの町を捜索しました。
仲間と共に、人力車で街を探し回っていました。
ちょうど信号待ちをしていた時、タージは幼少時代から覚えていた音を聞いたのです。
そこには、ココナッツを取っている男が目に入り、その瞬間、自分が昔の近所にいることに気づきました。
彼は人力車から飛び降りて路地へ駆け寄りました。
小屋はなくなり、家族は引っ越していましたが、子供の頃知っていた地主はまだそこにいました。
その地主から、タージの兄弟が何十年か前に布地の漂白工場を始めたという情報をもらい、隅から隅まで漂白工場を訪ねて、とうとうタージの家族の家を見つけることができたのです。
19年後実の母と奇跡の再会
その家は、ジャングルを通り抜け、丘の上に小屋がありました。
そこには、赤いサリーを着た女性と小さな子供が走り回っていました。
一緒に同行していた男性が、タージの本当の家族かどうかの確認をするために、サリーを着た女性は母親らしき女性が入浴していた川に急いで行き、当時7歳だったチェラムトゥについて聞いたのです。
しばらくして、おばあさんが丘を駆け上がってきました。
そこでタージが目にしたのは、髪は濡れたままの状態で、丘の頂上に着くまでに泣いていた女性でした。
その老婦のアライガウンダーはすぐに、タージの体の特徴的なマークをすべて書き始めました。
足の上部のやけどマーク、傷のある指、タージが誘拐されたときの年齢がすべてマッチし、老婦がタージを見たとき、そこでやっと母親と息子は18年以上ぶりに抱き合ったのでした。
7歳インド少年が誘拐されアメリカへ売り飛ばされ19年後実の母と再会 まとめ
当時、タージはタミル語を話せませんでしたが、心は通じていたという言葉では言い表せないものを感じていたそうです。
再会以来、毎年インドを訪れ、現在ではインドで営業所を構え、近くの村の人々を可能な限り雇用しています。
2015年6月、タージの本当の家族に初めて会うために養父母がインドに飛び、タージの家族と会いました。
最初、養母リンダは生みの母親にどう思われるているのかと怖かったそうです。
ですが、会ってみて恐怖など打消しお互い一人の息子を愛する母から母へと変わったそうです。
タージにとっては壮絶な人生でしたが、永遠につなぐ決して壊れない家族の絆を発見することができ、そして芯を持って諦めず行動することの大切さが伝わるお話でした。
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