1月17日【奇跡体験アンビリバボー】で、中国のある夫婦に2人目の子供が誕生したのですが、当時一人っ子政策のため、その夫婦は育てることができず断腸の思いで、市場の入り口に手紙を添えて赤ちゃんを置いていってしまいます。
それから22年後に再会できたという感涙もののストーリーが放送されます。
その感動する物語を調べてみました!
生みの親と一人っ子政策で捨てられた娘
中国では1980年代に一人っ子政策が実行されました。
そこで多くの家族が2人目の子供を放棄することを余儀なくされ、多くの悲劇を生み出したのです。
その中の1つの家族、母親の銭粉香(チェン・フェンシアン)と父親の徐礼達(シュー・リーダー)も、2人目の子供が犠牲となりました。
当初、その夫婦は長女に弟妹を作ってあげようと気楽に考えていました。
一人っ子政策中だったとはいえ、村の家族計画担当の幹部たちから遠く離れたところに住んでおり、この大都会ならわからないだろうと、うまく切り抜けられると思っていたのです。
ですが、制限を越えた人々には重い罰金と恐喝が待っていたのです。
夫婦は怖い話をいろいろ聞かされ、すでに妊娠している子供を産めないと思ったのですが、
その時はすでに妊娠5~6ヵ月で中絶するには遅すぎたのです。
そして夫婦は病院にも行かず、密かに子供を産んだのです。
出産してから3日間一緒に過ごしたその子供の名前を『静芝(ジンヂー)』と名付けました。
夫婦は、3日目の早朝に赤ちゃんを蘇州にある青果市場に連れていき、手紙と共に残してきたのでした。
その手紙とは…
「私たちの娘・静芝(ジンヂー)は(太陰暦の)1995年7月24日午前10時に生まれました。貧しさと社会事情の強制によりこの小さな子を放棄することを余儀なくされました。この父と母の心に哀れみを! 私どもの娘を救ってくださり、育ててくださり感謝いたします。運命が許すならば、いまから10年後、あるいは20年後の七夕の朝に杭州の断橋(ドゥアンチアオ)で一目会えますように」
娘を置いて100メートルほどの歩いた角で、夫婦は待って待って待ち続けたのです。
そして、赤ちゃんが泣き始めたのが聞こえました。
それは、赤ちゃんが連れ去られたということを夫婦は理解したのです…
アメリカで養子として育った静芝(ジンヂー)
22年前、拾われた赤ちゃんの静芝(ジンヂー)と手紙は、蘇州市の児童福祉施設に届けられたのでした。
時同じくして、アメリカミシガン州ハドソンビルのケンとルース・ポーラー夫妻は養子を迎えることを考えていました。
この夫婦は福音派のキリスト教徒で、すでに2人の息子がいましたが、3人目の子供が欲しかったのです。
「どこの国から養子を迎えるかは大した問題でないと思っていましたが、私たちには中国人の義兄がいたし、ルースの姉も中国から養子を迎えていて、良いなと」思っていたそうです。
1996年夏、「ベサニー・クリスチャン・サービス」という米国人向けの国際養子縁組エージェントが、10組の米国人夫妻を蘇州の孤児院に案内しました。
ポーラー夫妻は静芝(ジンヂー)を養子として迎え、『ケイティ』という名前で生活をしていきます。
そして生みの親からの手紙をポーラー夫妻は大事に持っていたのです。
ポーラー夫妻は、ケイティが早くとも18歳になるまで、しかも自分の過去を知ることに興味を示すまで、この手紙について話すつもりはありませんでした。
ケイティは大事に育てられ、すくすくと育っていきました。
10年後…
母親の銭粉香(チェン・フェンシアン)と父親の徐礼達(シュー・リーダー)夫婦は、朝7時に杭州の断橋(ドゥアンチアオ)で自分の娘と再会することを望んで「静芝」という言葉を書いて持っていました。
七夕の日に橋を歩く人がたくさんいましたが、夫婦の目の前にはだれも立ち止まりませんでした。
二人の気持ちは重くなっていきます。
夫婦は会える確率がほぼないのは理解していました。ですが、奇跡を信じたかったのです。
暑くて空腹で喉が渇いてきた中、夫婦は3時半近くまで待っていました。
しかし、自分の娘は一向に現れず、夫婦は失望し肩を落として帰っていきました。
しかし、夫婦が橋を去ったわずか数分後、アニー・ウーという女性が橋に到着します。
その方は、ポーラー夫妻の友達の友達でした。
それらしい夫婦がいなかったのですが、テレビのクルーを発見したのです。
そこで、夫婦が映っているかを確認し、なんと静芝(ジンヂー)の名前を持った男性が映っていたのです。
そこで、その夫婦に伝言してもらうようにアニー・ウーはスタッフに託したのです。
『ケイティを養子として育てたポーラー夫妻は一度も手紙のことを忘れたことはありません。
ケイティは幸せでポーラー夫妻という裕福なアメリカ人の家族と住んでいます。』
ということを伝えたのです。
テレビ局は【感動的な話】としてテレビを放映し紙面にも載りました。
それらを見た友人が産みの親夫婦に静芝のことがニュースになっていると伝えたのです。
夫妻は、テレビ局を通じてア二ー・ウーと会い、アメリカ人夫妻からのタイプされた手紙と数枚の写真を渡されたのでした。
しかし、ポーラー夫妻は、ケイティにはこのことを話しませんでした。なぜなら10才のケイティにまだ若すぎるため、まだ伝えるには早いと思ったからです。
20年後…
それからまた10年の歳月が経ちました。ポーラー夫妻は、ケイティの生みの親との連絡を絶っていました。
ですが、21歳を迎えたケイティは、自分自身の起源を知るべきときが来たと養母に突然切り出したのでした。
ポーラー夫妻は以前からケイティの実の両親を知っていましたが、彼女の人生を壊してしまう恐れからそのことを告げていなかったのです。
そして、1年後には中国の七夕の日に生みの親とケイティが出会えたのです!
待ち合わせの橋にケイティの姿が見えた途端 母親の銭粉香(チェン・フェンシアン)は泣きながら駆け寄り、中国語で「やっと会えた、本当にごめんなさい」と泣きながらくり返し言っていたのでした。
22年目にして七夕の日に娘と会うことができたのでした。
太陰暦の7月7日は、中国神話のなかでも、悲しい運命により結ばれることのない恋人たちが、天空の橋のうえで1年で唯一会うことを許された日だということで、現実に中国の産みの親と捨てられた娘が奇跡ともいえる再会を果たしたのです。
その後、ケイティは中国の両親とも連絡を取り合うようになり、仲良くしているそうです。
そして現在、ケイティはアメリカの大学を卒業し、新社会人として中国に戻っているのです。
ケイティは2018年9月初め、江蘇省淮安市で1年間、英語を教えているのだそうです。
中国 生みの親と一人っ子政策で捨てられた娘が22年の時を経て七夕に再会! まとめ
本来 養子に出された子供は、なかなか産みの親に会えるという確率は低く、そもそも探すのに、時間と費用がかかり、無駄骨になることも多いのだとか。
もし、探し当てたとしても、子供が実の親との再会後に関係を築こうとしないのは珍しくなく、何が目当てかというと、ただ自分の中国名や本当の出生日、遺伝子情報などの『真実』だけを求めているだけなのだそうです。
いろいろな事情があるだけに、再会することが必ずしもいいことなのかは、当人の気持ち次第でもあります。
今回の感動物語のケイティに関しては、今でも連絡を取り合っているので、本当に会えて良かったですよね。
ただ中国の一人っ子政策の裏には、重い罰金や懲戒刑の恐怖から捨てられた子供たちが多く存在したこと、父系社会ゆえに、女児を養子に出すか殺してまでも男児の跡継ぎを得ようとたということが、1979年から2016年まで施行されていたなんて、本当に信じられません…
今回はとても素敵な再会となりましたが、今後は何の罪もない幼気な子供が犠牲になることだけは、なくなって欲しいですね。
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