西東京市の田無小学校校庭から旧日本軍の埋められた鉄砲や刀など大量に見つかる!なぜ?隠されたものなのか?




【噂の!東京マガジン】で小学校の校庭から武器3000点発見の謎というのが放送されます。

それは2018年8月に発見されたものですが、戦後73年(発見された年)も経ってから埋められていたものが見つかり、あまりにも大量な数の武器がなぜ学校の校庭に?…なんだかミステリーですね!

そのミステリーを少し調べてみました!

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西東京市の田無小学校 校庭で鉄砲や刀など大量に見つかる!

東京都西東京市の市立田無小学校で、7月27日 夏休みを利用し、工事業者が遊具などを保管する管理棟を移す工事をしていたこところ、作業員らが移設先の地中(深さ約2メートル)に大量の武器が埋まっているのを発見しました。

地中から見つかった銃は約1メートルほどの歩兵用のものなど約1400点が、刀剣類は50センチ前後のものを中心に約1200点が見つかりました。他にも訓練用の手りゅう弾や銃弾など、全て合わせると約3000点に上ります。

いずれも錆びたり、曲がったりするなどしていて、状態から戦時中のものとみられるとのこと。

これらは8月3日まで発掘作業は続き、銃器と刀剣の一部は市が保管し、その他は廃棄処分、手りゅう弾については自衛隊が回収したそうです。

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戦時中の西東京市 田無小学校付近

田無小学校は1925年(大正14年)から現在の場所にあり、戦時中も学校として使用されていました。

昭和16年、田無国民学校と改称、戦争の被害は田無小学校にもおよび、昭和20年4月には校舎も被災しました。

(中島飛行機製作所が武蔵野市にあったことに大いに関係しています) 引用:西東京田無小学校

昭和19年(1944年)11月24日 B29により東京初の空襲

空襲をうける中島飛行機武蔵製作 引用:米国公文書館所蔵

空襲の狙いは、中島飛行機武蔵製作所でした。

中島飛行機は日本最大を誇る航空機生産企業で、武蔵野製作所は海軍用の西工場、陸軍用の東工場、病院、その他の付属設備からなっており、主に発動機(エンジン)の生産を行う最重要軍需拠点だったのです。

米軍機111機のB29がサイパン島より飛び立ち、日本上空から武蔵野工場を24機が爆撃したのでした。

その後武蔵野工場は8回も爆撃されるのです。

            引用:国立国会図書館憲政資料室所蔵

1945年(昭和45年)4月2日 田無駅前の空襲

米軍の爆撃目標は中島飛行機武蔵製作所でしたが、この時、春霞のため目標を外してしまいます。

その1トン爆弾が田無駅前、所沢街道北原、保谷町などに多数投下され、100名以上の犠牲者がでました。田無駅のホームは吹き飛び、50件以上の家屋が全壊したのです。

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昭和20年(1945年)4月2日 北多摩東部地域に唯一の夜間空襲

この時、マリアナ諸島から飛来した121機のB29のうち115機が日本上空に到着し、1機が36発の爆弾を低空から投下しました。

照明弾と時限爆弾が投下され、いつ爆発するかわかならい恐怖の底に陥れら、80名以上の犠牲者が出たといいます。

昭和20年(1945年)7月29日午前 西武柳沢駅南 模擬原子爆弾投下

西部柳沢南(旧北多摩群保谷町上保谷柳沢)に模擬原子爆弾が投下されました。

当時ジャガイモ畑で、収穫中だった女性3人が亡くなり、11人が重軽傷を負ったそうです。

それは広島の原爆投下に先立つ8日前、長崎投下の11日前のことです。

1トン爆弾というのは、長崎型の原爆と同型で、原爆投下の予行演習をしていたそうです。

この模擬原爆は1945年7月20日から8月14日まで計50発が日本各地に投下されました。

その後、日本最悪の広島、長崎に原爆投下され無条件降伏を受け入れ終戦したのです。

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田無小学校の校庭に、なぜ隠されたのか?

今のところ有力な手掛かりがない状態ですが、終戦後、田無小学校の近くに住んでいた浜野敏郎さん(90)という方が市民グループ主催の講演で戦時中の様子を語られました。

それは戦時中、田無小学校では米軍機を迎撃する高射砲台の交代要員など80人規模の小隊が寝泊まりしていたのだそう。

「青年会」「青年学校」と呼ばれる組織が訓練用の銃や、銃の先に付ける剣、模擬手りゅう弾を施設内に置いて訓練を続けていたそうです。

それを裏付ける証拠に、見つかった銃砲類はいずれも訓練用で本物ではないそうです。

正式な日本軍の銃には『菊花紋章』の刻印がありますが、訓練用にはないのです。

発見された銃は痛みが激しいものの、銃には刻印はなく、正規銃になるらせん状の溝(ライフリング)も確認できなかったそうです。

1945年8月20日~25日ごろ、近所の人や家族が

「学校の西側に穴を掘って訓練用の銃を埋めている」

「武器を燃やしていた」

というのを耳にしたそうです。

浜野敏郎さんも記憶が明らかではないのですが、

「作業しているのを遠巻きに見た」

と話されています。

銃器や刀剣などを埋めた理由を

「米軍に調べられたら大変なことになると恐れたのではないか」

と浜野敏郎さんは推測されています。

その後は近所でも誰も話さなくなったそうです。

一方でつじつまが合わないのが、武器の多さです。
当時 浜野さんが目にした訓練用の武器の数量は隊員とほぼ同じ数だったそうです。

確認は難しいとみられていますが、誰かの指示であつめなければこれだけの数にはにはならないという推測で、引き続き調査をするそうです。

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田無小校庭から鉄砲や刀など大量に発見!なぜ?隠されたのものなのか? まとめ

戦後73年が経ち、だんだんと戦争と戦災の事実を伝える方々が少なくなってきています。

二度とこのような戦争を起こさないためにも、空襲の被害や多くの方々が亡くなられた事実と記憶を風化しないよう、後々の人たちに伝えることは、とても重要なことです。

田無小学校で見つかった旧日本軍の武器も、なぜ大量に埋められたのかという真相というのが、もしかしたら【噂の!東京マガジン】で解明するかもしれませんね。

まだまだどこかに戦争の遺品の何かが埋まっているかもしれません。戦争時のものがまた発見された際にも、戦争の怖さを繰り返さないように今の私たちが後世に語り継げるようにならないといけないですね。

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