志村けんの生い立ちと若いころはイケメン⁈下積み時代やウケないマックボンボンて?名言が深い

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【あいつ今何してる?】にコント界の帝王、志村けんさんが出演されます。

 

下積み時代の㊙エピソードで、

昭和の超怪物級人気番組「8時だヨ!全員集合」【ザ・ドリフターズ】加入前は

「マックボンボン」というコンビを結成し、レギュラー番組も持っていた志村けんさん。

 

正直それは知らなかったです。

 

今では

「天才!志村どうぶつ園」は子供たちからも大人気の番組や、

「志村けんのバカ殿様」は定期的にスペシャルが放送され注目を集めている番組に

出演されています。

 

大御所の志村けんさんですが、偉ぶるわけでもなく、少し控えめで優しそうな人柄の

アイーンな志村けんさんの生い立ちなどを調べてみました!

 

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志村けんさんの生い立ち

 

本名          志村康徳 (しむら やすのり)

生年月日    1950年2月20日(2019年現在 69歳)

出身地       東京都北多摩群東村山町

身長          166cm

 

 

志村けんさんの家族は、祖父母、両親、叔母、兄2人の8人の大家族でした。

 

小学校教諭だった志村けんさんの父・憲司さんは、とても厳しい方だったそうです。

 

柔道5段の腕前で、躾にはとても厳しく、お仕置きで殴られることも多く、怖くて口をきけないほどの存在でした。

 

そのため、父親が大黒柱でもあるため家庭を支配し、重苦しい雰囲気が家に漂っていたそうです。

 

ですが、テレビのお笑い番組で漫才や落語を見ているときだけは、父の憲司さんも笑いをこらえながらテレビをみて、珍しく声を出し笑った父・憲司さんの姿に衝撃を受けたそうです。

 

そして、これを契機に、友だちを笑わすことに熱中する少年になっていったのでした。

 

 

 

そして、志村けんさんの芸名は、父親の名前【憲司】に由来しています。

定番の芸である、爺さんのコントは、憲司さんをモデルにしたものだそうです。

 

そいんな父・憲司さんは、志村けんさんが正式にドリフのメンバーになる前に亡くなりました。

 

2015年には母・和子さんは96歳でお亡くなりになりました。

 

高校卒業後、コメディアンになることを後押ししたのは母の和子さんだったそうです。

 

母・和子さんは息子の志村けんさんの一番のファンと公言しています。

 

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志村けんさんの若いころはイケメン⁈

 

なかなかイケメンですよね!

 

そもそもお笑いが好きで、まったく俳優という道は考えていなかったようですが、

あの高倉健さん主演の映画【鉄道員 ぽっぽや】では、俳優活動をされています。

 

そして、志村けんさんはブラックミュージック系が大好きで、

昔、音楽雑誌にレコードレビューを書いていました。

 

よく知っている志村けんさんは、お笑い一筋といった面しか知らない人などは、

結構おどろきがあるようです。

 

志村けんさんの下積み時代やウケないマックボンボンて?

お笑い芸人を志し、高校卒業後に何のつてもなく、ザ・ドリフターズの一番下っ端の見習いとして志村けんさんの修業がスタート。

 

そして、志村けんさんと同じく、いかりや長介さんに弟子入りを直談判してドリフターズの付き人になったという5歳年上の井山淳さんもいました。

 

修行の道のりは決して順調ではなく、実は69年秋ごろ、志村けんさんは付き人から一度失踪しているのです。

 

それにはいろいろ諸説があるようで、

 

・あまりの修行のつらさに逃げた

 

・同じボーヤ仲間の井山淳とコンビを組みたいといかりやに告げたところ、

許しが得られなかったため出ていった

 

・コメディアンとして社会勉強をしていた

 

などなど…

 

そして、社会勉強した志村けんさんは1年後、ドリフターズの加藤茶さんの口利きで付き人に復帰できました。

 

 

その後、井山淳さんとコンビ「マックボンボン」を結成し、ドリフの地方巡業の前座に出演するようになります。

 

「マックボンボン」のネタは、ボケの井山淳さんに志村けんさんが「何を言ってるんだよ!」と顔面を蹴ってツッコむというスタイル。

 

かなり暴力的な?コントはウケたようで、72年の新番組『ぎんぎら!ボンボン!』にレギュラー出演していました。

 

しかし、パッとせず、番組自体も同年12月に終了します。

 

マックボンボンは実績がほとんどなかったため、実力が伴わず視聴率を下げ、わずか3ヵ月で打ち切りとなりました。

 

これにショックを受けた井山淳さんは失踪してしまいます。

 

結果、マックボンボンは解散し、志村けんさんはドリフの付き人に戻りました。

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志村けんさんドリフターズメンバーから大スターへ

1969年10月、『8時だョ!全員集合』がスタート。

 

1974年に志村けんさんはザ・ドリフターズの正式メンバーへと昇格します。

 

しかし、志村けんさんはどんなに頑張っても、まったくウケない期間が2~3年続き悩んでいたそうです。

何をやってもウケない日々が続いたのですが、転機が訪れます。

 

『少年少女合唱隊』コーナーで、志村けんさんの地元の替え歌『東村山音頭』が大ウケ。

 

このブレークで、ドリフターズの一員として志村けんさんが世間に認知された瞬間でした。

 

 

その後も、「ヒゲダンス」など、音楽ネタにブラック系ソウル・フリークだった志村けんさんの趣味が反映されるようになったのだそう。

 

 

そして、

「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」

「志村けんのだいじょうぶだぁ」

「志村けんはいかがでしょう」

 

などで活躍され、現在は

 

「天才! 志村どうぶつ園」

 

では子どもから大人まで楽しめる長寿番組となっています。

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志村けんさんの名言が深い

志村けんさんは、トーク番組でも割と落ち着いたトーンでお話され、

言うことが何だか深くて、とても為になる話をされるんです。

 

そんな一部をまとめてみました。

 

非常識なことをするためには、まず常識を知らなきゃいけないんだよ。matome.naver.jp

 

マンネリで大いに結構。

ほかの人はマンネリまでいかないじゃないですか。

定番があるのは全然恥ずかしいことじゃない。

ドリフも僕のバカ殿も変なおじさんも、必死でネタ作って、

とことん何年もやり続けてきたわけだから。

みんなマンネリの域まで達してみろって。 matome.naver.jp

 

タカアンドトシが、自身の持ちギャグである「欧米か!」をこのまま続けて行くべきか真剣に悩んでいた際、「このままずっとやり続けるべきだ」と励ましたのだそう。Wikipediaより

 

 

気取らないこと。とにかく飾らない。

自分を大きく見せようとする段階で人はうそをつくし、

それはすぐに見破られるものですよ。 matome.naver.jp

 

ある対談で、志村けんさんよりだいぶ年下の人とお話をするときでも、必ず敬語を使って偉ぶらず対等にお話をしていたそうです。

 

 

分かる人には、演者が馬鹿で無い事くらいわかる。

むしろ利口ぶったり、文化人ぶったりするようになったら、

芸人としておしまい。 matome.naver.jp

 

先輩コメディアンの東八郎さんに、

「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのでしょうか」と尋ねた時、

東八郎さんから

「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」

と言われた。

 

この言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。 Wikipedia

 

 

やはり、芸歴や長く生きた分、言葉の真意や重みがありますね。

 

そもそも、志村けんさんは非常に照れ屋で、フリートークが苦手なのだそうですが、現在では様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演されています。

 

これからも、人生論などを多く伝えてほしいと思います。

 

志村けんさんといえば、やはり幼少期からずっと見ていた人気番組の大スターでしたから、

とても思い出深い方も多くいらっしゃるかと思います。

 

これからも元気でご活躍されることを願っています。

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