第2次世界大戦中、ポーランド軍に従軍した、ポーランド第2軍団第22弾薬補給中隊所属のシリアヒグマ「ヴォイテク(オス/1942年 – 1963年)」をご存知ですか?
イギリスやポーランドではクマの”ヴォイテク”は有名な話なんだそうです。
日本でもテレビでも取り上げられたり、本にもなっている感動する実話。
戦争に行ったクマの”ヴォイテク”について調べてみました!
目次
戦争に行ったクマ!ヴォイテクの記録
1942年の春、イランのハマダーン付近で、現地の羊飼いの少年が猟師に母親を撃たれて孤児となったクマの赤ん坊を見つけました。
羊飼いの少年は、クマの赤ん坊を育てる余裕がなかったので、肉の缶詰3個程と引き換えにポーランド人難民に譲渡しました。
その頃のポーランドは、1939年にドイツとソ連に侵攻、占領され、5年以上の占領期間中ポーランド全人口の20%が殺害されました。
そのため、大勢のポーランド人難民が出たのです。
ポーランド人難民はクマをかわいいと思い引き取りましたが、世話が大変で手をこまねく状態でした。
近くのポーランド陸軍弾薬補給隊の兵士たちは、そんな子グマの様子を見ていて、食べ物やチョコレート、スイスナイフなどと交換でクマを引き取ったのでした。
そうして、その子グマを”ヴォイテク”と名付けて飼うことにしたのです。
ポーランド人としては一般的な名前ですが、”ヴォイテク”とは元々の意味は、戦士、武人で、「戦を楽しむ者」「微笑む戦士」という意味なのだそう。
ヴォイテクは、始めのうちはミルクなど食事をうまく飲み込むことが出来なかったのですが、兵士たちは、薄めたコンデンスミルクをハンカチに染み込ませ、ウォッカ瓶に入れてミルクを飲ませていました。
ヴォイテクは、パンや果物、マーマレード、ハチミツ、シロップなどを食べて順調に成長。
兵士たちと一緒にいたせいか、タバコを吸い、最も好んでいたのはビールだったそうです。
ヴォイテクがビール好きになったのは、哺乳瓶替わりに使用していたウォッカ瓶に、残っていたアルコールがミルクに混ざったためと言われています。
子グマのヴォイテクは兵士たちの癒し
キャンプの兵士の多くは、1939年のナチス・ソ連軍によるポーランド侵攻の後、ソ連で収容されていた元戦争捕虜でした。
1941年にドイツがソ連を攻撃してから、強制収容所で生き延びた捕虜たちの多くが解放されました。
捕虜たちは、ペルシアと中東のキャンプに送られ、そこで兵士として訓練を受けていました。
ソ連の強制収容所で散々な目に遭った元捕虜たちは、帰郷することを願っていたのですが、その夢も叶わず再び戦場に送られることになったのです。
捕虜だった兵士たちほとんどが家も、友人も、家族も何もかも失った彼らたちにとっては、ヴォイテクは唯一の慰めでもありました。
兵士たちはクマとじゃれあったり、ボクシングをしたり、トラックに乗せてドライブに連れて行ったりしていました。
また”ヴォイテク”は、寝るため専用の特別製木枠がありましたが寂しがり屋で、兵士たちと一緒に眠ることを好んでしました。
設置された特別製の木枠の中に寝ていても、こっそり夜の間に就寝中の兵士の毛布の中や脱ぎ捨てられた軍服の中に潜り込んで寝ていたそうです。
ほんとに人に慣れているというか、自分も人間だと錯覚しているかのようですね。
ヴォイテクはポーランド軍隊へ配属
成獣となり体重113キログラム、体長1.8メートルに成長したヴォイテクは、正式に「兵士」として従軍します。
ヴォイテクは兵士や一般人らの注目を集め、間もなく付近に駐屯していた全部隊の「非公式のマスコット」となりました。
そのおかげでポーランド陸軍に正式に徴兵されポーランド第2軍団第22弾薬補給中隊に配属されました。
そして部隊はエジプトからローマ解放のためにモンテ・カッシーノの戦いに参加する事になったためイタリアへ渡ります。
ですが輸送船で、動物を運ぶことは禁じられていました。
そのため、第2軍団司令官ヴワディスワフ・アンデルス中将が、”ヴォイテク”に、伍長の階級を授与し、専用の軍籍番号と軍隊手帳が発行され、渡航が許可されたのです。
ヴォイテクのエピソード
部隊がイタリアについた際、こんなエピソードがあります。
1944年2月半ば、イタリア・ナポリ港に駐在していた英国の役人アーチボールド・ブラウンは、エジプトから到着したばかりのポーランド兵部隊をドイツ・イタリア軍と戦う連合軍への援軍とする手続きをしていました。
アーチボールド・ブラウンは、名簿を確認し到着したばかりの兵士を確認しなければいけません。
次々と名前を呼ばれる中、「ヴォイテク伍長」の番です。
「ヴォイテク伍長!」
ですが前に出る者はいませんでした。
ブラウンはもう一度名簿を確認しました。
間違いなく「ヴォイテク」という名前があり、軍籍番号と軍隊手帳もある。
ですが本人は出てこない…
するとひとりの兵士が、楽しそうな顔で歩み出て、ブラウンに檻を見せたのです。
中に入っていた大きなシリアヒグマのヴォイテク伍長を紹介したのでした。
その後、アーチボールド・ブラウンは、このことが印象に残ったらしく、この話を何回も周囲に話したそうです。
くまのヴォイテクはポーランド軍の英雄兵士!
1944年のイタリアで行われたモンテ・カッシーノの戦いに、ヴォイテク伍長は参戦します。
ヴォイテク伍長は、初めて本格的な戦闘を経験します。
最前線の激しい砲火の音や地響きに驚き、落ち着かなかったのですが、しばらすると大きな音や振動にも慣れて、木に登って遠くの爆発を眺めたりしていました。
そしてヴォイテク伍長は、兵士たちが輸送車から、弾薬や燃料、食糧など入った箱を、積み下ろししているのをじっと見ていました。
ある日、ヴォイテク伍長は輸送車に乗せるための箱に物資を入れる作業していた兵士たちに近づいて来ました。
ヴォイテク伍長は2本足で立ち上がり前足を出しました。
兵士たちは、試しに空箱をヴォイテク伍長に渡すと、落とさず器用に輸送車まで運んだそうです。
そして、箱を輸送車にいた兵士に箱を渡すと、物資を入れる作業していた兵士たちの所に、
戻ってきたのです。
そのため、兵士たちはヴォイテク伍長に、弾薬運搬作業を手伝ってもらおうと考え、約50kgの重たい迫撃砲の弾丸などが詰まった箱を運ぶよう訓練しました。
ですが、ヴォイテクは怠け者であることが判明します。
いつも空の箱ばかり運ぼうとしていました。
しかし、モンテ・カッシーノの戦いでは、空の箱を選ばず、50キロ近い弾薬や補給物資の入った重たい箱を、前線まで運び見事部隊を助けたのです。
足場の悪い山岳地帯でも、決して落とすことは無かったそうです。
ヴォイテクの栄誉ある紋章
その勇気と戦う意思が認められ、第22弾薬補給中隊の部隊章のデザインは、『砲弾を持つクマをかたどった紋章』を公式シンボルとして承認しました。
くまのヴォイテク最後の住みか
終戦後、ヴォイテクと兵士3000名はスコットランド、ベリックシャーにあるハットンのキャンプへ送られました。
1947年戦後処理が終わり、ヴォイテク伍長はポーランド軍から除隊する事になりました。
ポーランド軍兵士たちは、祖国ポーランドにヴォイテクと一緒に帰りたいと願っていました。
しかし、大戦後のポーランドは、支配していたドイツは撤退したのですが、ソ連はそのまま支配域を広げており、制限の多い共産主義国となり反抗する多くの市民が、追放や処刑をされていました。
ポーランド軍兵士たちは、祖国に帰ることが困難になっていたのです。
そのため、シリアヒグマのヴォイテクは英国のエディンバラ動物園に
引き取られる事になりました。
ポーランド軍兵士たちはヴォイテクに
「ポーランドが、自由の国になったら、必ず一緒に、ポーランドに行こう。動物園には、何度も会いに来るから。」
と束をしたのでした。
そして、ポーランド軍兵士が、エディンバラ動物園へ移動するためにヴォイテクの鎖を外した時、ポーランド軍兵士の顔を数回舐めてから檻に入ったそうです。
ヴォイテクは檻の中から兵士たちをじっと見つめ、兵士たちが立ち去ると悲しげに鳴き続けました。
ヴォイテクは、いくら人に慣れていても、シリアヒグマ。
猛獣に分類されます。
動物園では、動物には直接触らないという間接飼育で飼育されていました。
ヴォイテクは、動物園で大人気だったそうです。
でも、岩山にじっと座っている事が多かったそうです。
その後、ヴォイテクはリウマチによる関節の変形と食道炎になり、治療と安静を兼ねて、
狭いケージで過ごす事になったそうです。
多くの元同僚のポーランド兵たちが、動物園に会いに来ていました。
元同僚が来ると檻の中に入り、じゃれ合っていたそうです。
もちろん飼育員はソワソワしながら見ていたようですが…
ヴォイテクは、とても喜び、元同僚のポーランド兵が呼びかけると、手を振って応えたり、ヴォイテクの好きなタバコを投げ与えたりしていましたが、タバコに火を点ける者がいなかったため、タバコを吸えず食べていたそうです。
ある時、元ポーランド軍の中尉が動物園にバイオリンを持って来て舞踊曲を演奏すると、ヴォイテクは昔と同じように踊り出したそうです。
だんだんと元同僚のポーランド兵たちの来る回数が減っていきました。
今まで人と触れ合っていたのが、できなくなり自由もなくなり1頭だけの生活が、次第に落ち込むようになり、檻の中を行ったり来たりするようになり、かなり気難しくなったそうです。
ポーランド兵士たちと過ごした5年間が、ヴォイテクにとって忘れられず、イギリスの動物園の生活になかなか馴染めなかったそうです。
さらにはポーランド語での呼びかけにしか、反応しなかったそうです。
ポーランドに戻っていた元ポーランド軍兵士たちが英国政府と共に、すこしばかり自由が認められたポーランドの動物園で、ヴォイテクを引き取ってもらえないかと働きかけました。
しかし、当時のポーランド共産党政府は、ヴォイテクが【戦時中の第2軍団のシンボル】であるという理由で、その願いを却下したそうです。
その後ヴォイテクは、16年間イギリスに住み、1963年12月21歳で息を引き取りました。
かつての仲間はもちろんこと、国中が悲しみに沈んだそうです。
戦争に行ったクマの”ヴォイテク”はポーランド軍の英雄兵士!切ない感動物語 まとめ
引用:Wikipedia
ヴォイテクの死後、英国のエディンバラ動物園、ダックスフォード帝国戦争博物館、シコルスキ博物館など各地に記念碑が建てられました。
ヴォイテクは生前、多くの兵がそうであるようにビールやタバコが大好きだったことに対して元ポーランド兵だった人は、
「大きなイヌみたいだった。だれもやつを怖がることなんかなかった」
「やつはたばことビールが好きだった。そこらの人間の男みたいに瓶ビールを飲んだんだ」
と語っています。
ヴォイテクは自分が人間だと思っていたのでしょう。
ポーランド軍の兵士たちと共に過ごした5年間はヴォイテクにとって、かけがえのない楽しい時間だったのに、戦争が終結し動物園に連れていかれ、他のクマと一緒に檻の中で暮らすことを与儀なくされました。
どうして自分だけが檻に入れられ、離ればなれにならなければいけなかった状況が、後にストレスになりヴォイテクは鬱になりました。
ですが、21年間生きたヴォイテクは、長生きされた末に、天命を全うしたのではないかと信じています。
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