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オーストリア10歳少女誘拐監禁事件、地下室(動画あり)に8年間(3,096日)奴隷として生きた壮絶人生ナターシャ・カンプッシュ

エンターテイメント

1998年 オーストリアのウィーンに母と子で暮らす10歳の少女がこつ然と姿を消した事件をご存知ですか?

 

その10歳の少女の名前はナターシャ・カンプッシュさん。

 

この事件は8年(3096日)もの歳月を誘拐犯が監禁し続けた「オーストリア少女監禁事件」です。

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オーストリア少女監禁事件

 

1998年当時10歳だったナターシャ・カンプッシュさんが行方不明になってから、警察が捜索するもまったく手がかりは無く、母親が殺害したのではと国民から疑われる事態にまで発展します。

 

ですが、実は10歳の少女は男に誘拐され防音の地下室に閉じ込められていました。

 

誘拐された時、ナターシャ白いマイクロバスに引きずり込まれるのを見たと、12歳の目撃者が証言し、警察は大がかりな捜索を開始します。

 

776台のマイクロバスを調べたのですが、その中には誘拐した犯人の車もあったのです。

 

その誘拐犯はナターシャが暮らす家から30分ほどのところに住む元エンジニア。

 

その誘拐犯の名前はヴォルフガング・プリクロピルという当時36歳の男。

 

プリクロピルにはアリバイがなく、マイクロバスを所有していることを認めたのですが、仕事でいろいろなガラクタが出るので、それを自宅に持って帰るのに必要なのだと主張し、警察はその説明を信じてしまいます。

 

ナターシャは誘拐された時にパスポートを持っていました。

 

警察は国外にも捜索の輪を広げたのですが、それ以上手がかりはつかめず、結局、彼女の行方は判明しなかったのです。

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地下室(動画あり)に8年間監禁、奴隷として生きた壮絶人生

プリクロピルは、ガレージ下の窓のない防音の地下室にナターシャを閉じ込めました。

 

その広さはわずか5平方メートルで、扉は鋼鉄で補強されたコンクリート製。この出入り口は金庫で塞がれていました。

 

「お前はもうナターシャじゃない。俺のものだ」

 

その後の6カ月間は、この小さな部屋が彼女にとっての全世界となります。

 

ナターシャは誘拐犯に絶対服従の生活を強いられていました。

 

家の中では、プリクロピルのきっちり1メートル後ろを歩くよう強制させられ、たびたび殴られ、歩けなくなることもありました。

 

眠っているときは手錠をかけられ、髪を剃られ、奴隷として家事をさせられていました。

 

ナターシャには食事を十分にあたえず、ガリガリにやせ細っていきます。

 

ナターシャをいつも空腹の状態にしておき、衰弱させて逃げられないようにしていました。

 

プリクロピルは彼女が一時的に上の階で過ごすことを許したのですが、眠るとき、自分が仕事に出かけるときは、必ず地下室に戻されました。

 

さらに逃げられないように、家のドアと窓には強力な爆薬が仕掛けてある、逃げようとしたら持っている銃で撃ち殺す、と脅していたのです。

 

監禁された地下室での日々は、ほぼ同じ日常の繰り返しで、プリクロピルと一緒に、朝食をとる、プリクロピルが仕事に出かけると、本を読んだり、テレビを観たり、ラジオを聴いたりしていました。

 

本やビデオの助けを借りて、編み物や料理などを独学し、さまざまな家事もこなしました。

 

「自分は監禁されるために生まれたのではないと」言い聞かせ続け、自由の身になることを決して諦めなかったのです。

 

ナターシャは誘拐後数年間は、犯人の名前を知りませんでした。

 

ですが、彼女にとって彼は父親のような存在でもあったように、基本的なことから生理用品の使い方に至るまで何もかも教えられていたようです。

 

彼女の人生の多くは、ナターシャが知りうる唯一の大人であり、ナターシャを殴ってレイプし、食事はわずかに与えられ、多くの本も与え、教育していたのです。

 

保護直後のインタビューで誰もが驚いたのが彼女の知性と語彙の豊富さでした。それもそのはずで、プリクロピルは彼女にまた、ナターシャはラジオを聞き、テレビも見ていました。

 

ナターシャが8年間監禁されていた地下室

Welcome to Priklopil's House

 

拘束から解放されたナターシャ・カンプッシュさん

2006年8月23日、ナターシャは庭でプリクロピルの車の掃除をしていたときのこと。

 

午後12時53分、プリクロピルの携帯電話が鳴ったため、掃除機の騒音から離れた場所に移動して電話をとりました。

 

ナターシャはチャンスだと思い掃除機を地面に置くと、走って逃げだしました。

 

プリクロピルナターシャが出て行くのを見ていなかったのです。

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郊外の住宅の庭を200メートル駆け抜け、フェンスを跳び越え、通行人に警察に電話するよう頼んだが、なかなか本気にしてもらえず、脱出から5分後、ある家の前に立ち止まり、必死で窓をたたき助けを求めました。

 

その家に住む71歳の婦人は、体はやせ細り、だらしない格好をした青白い顔の若い女がこちらをのぞき込み、泣き叫んだり、体を震わせたり、明らかにパニックを起こしていた様子を見ておののきました。

 

「ナターシャ・カンプシュです!」

 

わけのわからぬまま、急いで警察に通報しました。

 

数分後には警官が到着し、ナターシャを保護しました。ナターシャは体の傷痕とDNAテストによって正式に身元が確認されたのでした。

 

のちに警察は、彼女が監禁されていた部屋で、1998年発行のパスポートが発見したのです。

 

保護当時、ナターシャの健康状態は良好でした。ただ、誘拐時とほぼ同じ42キロで身長も誘拐されたときから15センチしか伸びていなかったのです。

 

見るからに虐待を受けていたような容姿にも関わらず解放直後のナターシは、監禁中に暴行などは受けなかったと語り、警察の聴取に対しては、

 

「犯人は確かに犯罪者だと思いますが、私にはいつも親切でした。」ナターシャは言っていたのです。

 

ある心理学者は、ナターシャ「ストックホルム症候群」(長期間監禁が続いた際、被害者が犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱くという異常な心理状態)に陥っていたと分析しました。

 

その後、ナターシャが保護されてから数時間後、警察に追われていることを知ったプリクロピルは、ウィーン北駅の近くで列車に飛び込み自殺しました。

 

プリクロピルは何年も前に、当局が自分を「生きて逮捕することはない」ナターシャに言っていのだそうです。

 

ヴォルフガング・プリクロピル(1962~2006年・享年44才)

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解放の予兆?

実はナターシャ18才になったとき、プリクロピルに解放を持ちかけたことがありました。そしてどうやら、男は長い蜜月の終わりを受け入れたということなのでしょうか。

 

それから数週間後、プリクロピルは電話をとるために、ナターシャを1人、わざと庭に残し、この時にナターシャが逃げ出したのでした。

 

その時に電話をかけてきた相手はのちに、電話を終えるとき彼は落ち着いていたと語っています。

 

やはり、プリクロピルは終わりにしなくてはいけないと思っていたのでしょうか。

本当のところはわかりませんが…

 

ナターシャの精神状態

地下からの衝撃的な生還を果たした5日後に、ナターシャは記者会見の代わりに、声明文を発表しました。

 

それは驚くべき内容だったのです。

 

8年間もの監禁を強要した容疑者プリクロピルに対し、肯定的にとらえていたのです。

 

ナターシャは極めて前向きに

「監禁されていた8年間で何かを失ってしまったとは感じていない、むしろ喫煙や飲酒や悪い友達との交友などを避けることができた。」

と語ったのです。

 

容疑者プリクロピルと自分の関係について、

「あるとき『ご主人さま』と呼ぶように求められたものの、本気ではないと見抜いて、拒んだこともあった。わたしは彼と同じくらいに気が強かった」、

「ときどき、きわめて紳士的な態度をとると思えば、逆に、手ひどい接し方をすることも少なくなかった」

とも言っています。

 

けれども、この声明にはプリクロピルに対する強い怒りや恐怖などは見られず、それどころか反対に

 

「彼は私の人生の一部だった」

「だから、私はある意味で彼の死を悼(いた)んでいる」

 

など、むしろ、葛藤ともいえる複雑な情愛のような感情を示しており、世間が思う社会の良識の予想に反していたのです。

 

当時、事件の全容を解明すべく、捜査当局はナターシャから繰り返し事情聴取をおこないましたが、やはり精神的ダメージが大きく、すべてを説明することは難しかったのでしょう。

 

ナターシャ

「もう少しでいいから、独りにしておいてほしい。すべてをうまく説明できるようになる時がくるまで、とにかくそっとしておいて欲しい、時間が欲しい」

 

と答えていました。

 

そして解放から5年後の2010年9月、ナターシャは監禁されていた日々を克明につづった手記『3,096 Days』を出版しました。

 

 

異常な監禁生活は「人生の一部」であった容疑者プリクロピルに対する深い思い入れと、それとは明らかに矛盾する警察のずさんな捜査に対する憤りが混在している内容です。

 

その3年後『3,096 Days』は映画化され、ナターシャは翌年、その印税と全国各地から届けられた寄付金を使って、スリランカに小児病院を建設しました。

 

そして監禁されていたプリクロピルの家は2006年8月23日から放置され残されたままだったのをナターシャは買い取り、今でもその家の管理をしているのだそうです。

事件以来、彼女は不安定な精神を抱えながらも、2010年22歳で大学を卒業しました。社会生活に適応しようと今でも努力され生活されています。

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オーストリア少女監禁事件 まとめ

8年間も監禁を強いられてきたナターシャさん。ただ希望を失わずいつか自由になるという気持ちを抱き続け、そのために本やテレビから情報を得ていたという心の強い女性です。

 

その証拠に解放後、世間から好奇の目を避けるために名前を変えることもなく、そのままの自分を受け入れ、誘拐され監禁された時間は取り返せないけれども、前向きに捉えるように気持ちを持っていき自分の人生を肯定し、さらに本来であれば監禁された家は思い出したくない一部であるのに、それさえも購入して今でも行き来し自分の人生を過ごした一部として受け入れているのです。

 

とは言え、やはり精神的に大変な時期もあったことでしょう。本当に強い女性です。これからは幸せになって欲しいですね。

 


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