バルト海エストニア号沈没・20世紀最悪の海難事故!実は政治的な圧力があった?

10月31日【水トク】で『エストニア号沈没事件』が放送されます。

それは、「タイタニックの悲劇再来!?フィンランドで起きた20世紀最悪の海難事故」と言われ852人の犠牲者を出した最悪な海難事故となってしまったのです。

その『エストニア号沈没事件』を調べてみました。

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バルト海を運航するエストニア号

エストニア号はフィンランドの船会社からエストニア政府に売却された船で、ソ連から独立した1991年末ごろから北欧三国とエストニアを結ぶフェリー運航が始まりました。

マイカーで行ける気軽な旅の足としてかなりのブームになり、1992年にタリン~ストックホルム路線が就航します。

1994年5月にタリン路線に参入したフィンランドの観光船会社の話では、ヘルシンキ発の便は夏の間は毎日平均1000人以上の乗客を集め、ドル箱路線となっていたとのこと。

「ソ連時代はなかなか行けなかった場所だったため一度は見ておきたい」という北欧の人々の好奇心がブームを支えていたそうです。

ソ連潜水艦隊と中立国のフィンランド、スウェーデン海軍との冷戦の前線だったバルト海は、ソ連崩壊後3年で、一般庶民が最も手軽に行ける外国への観光ルートへと変わっていったのでした。

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エストニア号沈没事件

引用:http://k-senior.sakura.ne.jp/2009/091205-kaiyuu-okamoto.html

1994年9月27日19:00

エストニア号はタリン(エストニア)を出港し、28日9時30分着の予定でストックホルム(スウェーデン)へ向かいました。

エストニア号には乗客803人、乗員186人の989人が乗船しており、乗客の大半はスカンジナビア半島諸国民であり、乗員のほとんどはエストニア人でした。

貨物は満載状態であったようで、配置は均一ではなく右舷側に寄っていた事から、港では僅かに傾いていたとか。

当時、海の状況はだいぶ荒れていたといわれていますが専門家は、

有義波高4m(15-20m/sの風速が少なくとも10時間継続した場合に相当)で、海象は荒れてはいたが極端ではなかった

この状況を「通常の荒天」と評した。秋のバルト海では典型的な嵐であり、全ての定期旅客船は海上にあった。

高波ではあったが、通常通り運航できると判断したうえで航行していたということですね。

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エストニア号 最初の兆候

9月28日 0:55am

最初の兆候は、トゥルク諸島近海を航行中に発生した、バウバイザー船首(バウ)に設けられるランプウェイを保護する装置。 上方に開く跳ね上げ式のバイザードア⦆に大波が衝突した事による大きな金属音がありました。

二等航海士がチェックを指示したのですが、船員は状態表示灯の点灯を確認したに留まり、バウバイザー・ランプウェイの双方の表示は正常を示していました。

実はこの時点で、バウバイザーには異常が生じており、ランプドアに生じた隙間から海水の流入が始まっていました。その確認は船橋⦅(せんきょう)航海中、船長が操船・通信などの指揮に当たる所。ブリッジ。⦆に報告は届かなかったのです。

続く10分間で、乗員・乗客が同様の音を聞いたことが報告されていて、再チェックを試みています。

1:15am

バウバイザーが脱落。連動してランプドアが開き車両甲板に海水が急激に流入し、船体は右に大きく傾むく。

当初15度、5分で30度を超え傾いていきました。

1:30am

エストニア号横転。この間に減速し港へ向かって回頭したのですが、4基のエンジンは程なく停止してしまいます。

壊れた船首ドアから大量の海水が車両デッキに海水が流れ込んできました。

その時間ほとんどの乗員は寝てるかダンスフロアで飲んでいたそうです。そしてどういう訳か乗組員の対応も適切でなく、災害が起こったと判明した時には、船が傾いてしまってほとんどの人はデッキまで登ってくることすらできなかったのです。

1:45am 

エストニア号が沈没する5分前になって初めて、船員および乗客に異常を知らせるアラームが鳴ったのですが、時すでに遅く、船は深く沈み始めていました。

1:50am

船体が急激に、おそらくは30度以上の急角度で傾き始め、多くの人にとっては船室で寝ている時間で、跳び起きて傾く床をはって船室から抜け出すには、相当の体力と反射神経が必要です。

船が傾斜したため、ライフボードの大半は下に降ろすことができず、ほとんどの人々が船内にとりのこされたまま船は沈没しました。

1994年9月28日0時55分から1時50分にかけて、航路上のバルト海でエストニアは沈没。

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エストニア号 20世紀最悪の海難事故!

ほとんどの犠牲者は船内で眠っているボートの中に閉じ込められていました。およそ300人が外側のデッキに到達し、生き残る機会がありました。

しかし、救命設備はうまく機能せず、救命艇はリストのせいで降ろすことができませんでした。そのため救助活動も妨げられてしまいます。

船が傾きはじめると、一部の乗客は「呆然としたまま」「ほかの乗客が誘導しようとしても動こうとせず、力ずくで避難させようとしても、怒鳴っても、反応しなかった」そうです。

不測の事態に備えて繰り返し専門的な訓練を受けていても、惨事を回避できないときがあるのだそうです。

船から脱出した者は、ライフベストやライフボード、船に頼りながら漂流していたが、数十名はヘリコプターで救出される前に凍え死んでしまいます。

事故の33日以内に海から回収された93人の犠牲者と、18か月後に発見された被害者番号94を特定しました

乗員乗客989人のうち852人が死亡。

北欧からの旅行者は、物価の安いエストニアでの買い物も楽しみにされており、エストニア号の乗客はスウェーデン人が500人以上。今回の被害者は大半は観光客で、気軽な観光や買い物を楽しんだ後の惨劇となってしまいました。

この事故は17カ国852人の犠牲者を出した20世紀最悪の海難事故の一つとして現在は知られるようになりました。

エストニア号 沈没の原因

沈没したエストニア号

エストニア号は建造後の12年間フィンランド船籍で運航されていた時は、適切にメンテナンスされていましたが、エストニアの手に渡ってからは、管理がずさんで、出港時にはバウバイザー/ランプには水漏れがあり、決して出港できる状態ではなく、当時の海象では全速で走れる状態ではなかったようです。

ロックの点検が充分なされておらず、ロックの疲労亀裂を見逃していた疑いありとも言われています。

船首ドアのひさし部分の設計が非現実的なものであったため、ロックの強度が十分でなかったのも一つ。

また、運航速度が通常より高速であったこと、船員の対処が遅かったことも指摘されています。

それらの原因が船首部分が壊れ、車両デッキに海水が流入したことが沈没してしまった要因です。

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実は政治的な圧力があった?

カーフェリーが翌日早朝バルト海で沈んで852人が死亡し、欧州最悪の海難事故でした。

エストニアの沈没については、陰謀論が存在していると言われています。

スウェーデン、フィンランド、エストニア政府が船の引き揚げを拒否して、コストの問題を前に出して船引き揚げをせず船体を墓化しようという趣旨で、コンクリートで船を覆い埋葬する案がありました。

実は諜報活動としてロシアの軍事物資を民間のフェリーを使用して密輸した事を隠蔽するものであると疑惑を向けたのです。

この陰謀論の背景には、2004年11月のスウェーデンテレビの報道から始まった調査で、スウェーデンの元税関職員が、エストニアは1994年9月に軍需物資の輸送に用いられていたと主張し、スウェーデンとエストニアの両政府はこれを受けて調査を開始しました。

実際に1994年9月14日から20日にかけて爆発物ではないものの軍需物資が積載されたことを確認されました。

ただスウェーデンの国防省によれば、沈没当日には積み込まれておらず、スウェーデン税関による事前検査でも、当日に異常な活動は特に報告されていませんでした。

1995年の事故地点を聖域化し、各国民が沈船に接近することを禁じ事故船舶に接近することまで防ぐ接近禁止区域協定を結びます。

これについては、10~12年が経ってようやく、この船舶が「こっそり軍事装備を乗せて運ぶのに使われたことが分かった」とし「政府が隠したがる理由がある」と言われています。

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エストニア号沈没 まとめ

24年もの前にエストニア号が沈没しました。船内から外部へ面した甲板まで脱出できたのはわずか300人ほどでその際に助かったのが、138人でした。
こんな悲惨な話を次世代にもつなげ、このようなことが二度と起こらないように語り継いでいかなければいけませんね。

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