大女優・大原麗子の壮絶人生!中絶・離婚・うつや病気・整形失敗・貧窮・孤独死・実弟(大原正光)や浅丘ルリ子が語る衝撃事実とは?




“国民的女優”“好感度ナンバー1女優”だった大原麗子さん。

1964年芸能界デビューし、日本を代表するような美人女優でした。

大原麗子さんは2009年8月6日、実弟たちによって自宅で死亡しているのを発見されました。

享年62歳。

まだまだ若い年齢で亡くなられましたが、晩年は病気と闘い、寂しく孤独死されています。

そんな壮絶人生だった大原麗子さんをよく知る実弟や女優の浅丘ルリ子さんが、【シンソウ坂上】で衝撃的な壮絶人生を語られるそうです。

その前に大原麗子さんはどんな壮絶人生を送られてきたのか調べてみました!

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大原麗子さん 生い立ち

大原麗子さんは、1946年11月13日生まれ、出身は東京都文京区。

実家は、老舗の和菓子屋「田月堂」を経営されていました。

大原麗子さんは、幼い頃から父親に殴られて育ったそうです。

(殴られた鼻は、右側が少し盛り上がってしまい、女優になった後も、写真の写り方を気にされていたそうです)

8歳(小学2年生)の時に、父親の浮気が原因で両親が離婚します。

大原麗子さんは、お母さんに引き取られ、弟は父親に引き取られるのですが、その後も、大原麗子さんは、弟に会うため、毎週のように家を訪ねていたそうです。

母親も大原麗子さんにたくさんの愛情を注ぎ、貧乏ながらもバレエ教室に通わせてくれたそうです。

そんな母親に恩返しをして楽をさせたいと思ったのが女優を目指したきっかけだったそうです。

その後、大原麗子さんは六本木のイタリア料理店「キャンティ」等を拠点にした、おしゃれな遊び人のグループ「六本木野獣会」の一員となると、東京放映の社長にスカウトされて、芸能界デビューを果たします。

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大女優・大原麗子の壮絶人生!中絶・離婚・うつや病気・貧困・孤独死

1973年(昭和48年)9月、俳優・渡瀬恒彦さんと結婚されます。

ですが、5年後の1978年(昭和53年)2月13日に離婚

離婚理由は、大原麗子さんの新婚生活は、渡瀬恒彦さんの母親と同居を強いられ、家事が一切できない大原麗子さんは、渡瀬恒彦さんの母親に厳しく家事を教え込まれます。

そんな中、1975年ギランバレー症候群という病気にかかります。

渡瀬恒彦さんは京都にある撮影所の仕事が多かったため、京都に住んでいました。

大原麗子さんがギランバレー症候群で仕事を休養中、渡瀬恒彦さんは献身的に大原麗子さんの看病をされていたそうで、その甲斐あって病気が癒えたことで、すぐに仕事に復帰されます。

ですが、大原麗子さんは、以前のように仕事に邁進するようになり、家庭に入ることができず、破局となりました。

1975年結婚中に大原麗子さんはギランバレー症候群”を発症します。

ギランバレーの主な症状

手足に力が入らない
呼吸がしづらくなる
手足がしびれて感覚が鈍る

大原麗子さんはギランバレー症候群が一時は完治しますが、1999年11月には再発したとして芸能活動を休止しています。

1980年(昭和55年)6月には、歌手・森進一さんと再婚しました。

結婚後大原麗子さんは森進一さんとの間に子供を授かります。

しかし、大原麗子さんはその事を隠したまま、子供は産まないと決断します。

大原麗子さんは仕事を選んでしまうのです。

その事で、大原麗子さんの実弟は、森進一さんに姉と別れて幸せな家庭を築いてほしいと懇願します。

1984年(昭和59年)に離婚森進一さんとの結婚生活については離婚会見では

「家庭に男が2人いた」と振り返っています。

1991年、47歳のときに、「乳がん」が発覚。一旦は手術して回復しますが、1993年にも、「乳がん」が再発し、再び手術を受けられています。

1999年、左目を二重にする整形手術を受けます。

ですが、二重手術は失敗してしまい、まぶたが腫れ上がってしまったのです。

この時にはうつ病や精神的にも追い詰められていたそうです。

当時、主演が決まっていた映画「天城越え」の降板を余儀なくされています。

それ以来、大原麗子さんは、自宅に引きこもるようになるのです。

さらに、不幸は続きます。

2008年11月11日深夜、物を取りに行こうとガレージに出た際、足元がふらついて転倒し、右手首の骨折と膝の打撲という重傷を負ってしまいます。

実は、大原麗子さんは、11月に入ってから、足元がおぼつかなくなることがあり、ギランバレーの再発を不安に感じていた矢先の出来事だったそうです。

しかし、専門医によると、ギランバレー症候群が再発することは滅多にないそうで、再発は疑わしく、また、大原麗子さんの弟さんも再発は姉の思い込みだったのではないかと語られているのです。

なぜ、大原麗子さんはそのように思ったのか…

「同じ病気の人を怖がらせたくなかった」

との理由で、闘病については一切公言されておらず、亡くなられた今となっては、この真相は誰にもわからないのです。

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50代を迎える頃には主演級のオファーが激減し、納得のいかない仕事は全て拒否、主演以外も断り、撮影現場でも監督に対してセリフのダメ出しをするなど、スタッフと折り合えない大原麗子さんは、次第に業界内では「扱いづらい女優」というイメージが定着していきます。

こうしてマネージャーや運転手などのスタッフが大原さんのもとを離れていったのでした。

芸能界で孤立してしまった大原麗子さんに救いの手を差し伸べたのが、1973年に結婚した最初の夫である俳優の故・渡瀬恒彦さん。

渡瀬恒彦さんは大原麗子さんのことを心配し、自身が主演を務めるドラマ『十津川警部シリーズ』への出演を勧め、結果この時の『十津川警部シリーズ 東北新幹線「はやて」殺人事件』(2004年)が大原さんの遺作となったのです。

さらに大原麗子さんが愛していた母親の介護も重なり、彼女は追い詰められた結果、躁うつ病まで患ってしまいます。

複数の薬を大量に摂取したこともあってか体と心の調子を崩し、ますます自宅に引きこもる生活になっていきました。

その頃、いつしか大原麗子さんは、友人や仕事関係者に時間を問わず電話をかけるようになります。

「なぜ自分を(映画やドラマに)使わないのか」

などと悪態をつくような状態に陥り、親友である浅丘ルリ子さんや故森光子さんなど

「優しかった麗子がどうしちゃったの?」

と心配しつつ、もうこれ以上耐えられないということで、大原麗子さんとの距離を置かざるを得なくなっていったのです。

大原麗子さんの晩年は、大きな豪邸に住んでいたのですが、決して生活は楽ではありませんでした。

仕事もなく、だんだんと年を取るにつれて生活は苦しくなっていき、高価な絵画や骨董品はすべて売り払ったそうです。

そして、年金の受給開始年齢になる前に一部を受け取れる「繰り上げ受給」を申請され、さらに弁護士と一緒に社会保険事務所を訪れて、「年金額がなんでこんなに少ないんですか」と抗議したほどだったそうです。

2006年8月6日に実弟は姉の大原麗子さんに連絡が取れないと成城警察に通報します。

実弟と駆け付けたところ世田谷区の自宅2階の寝室の床上で仰向けに倒れて死亡しているのが発見されます。既に息を引き取っていました。享年62歳という若すぎる死でした。

携帯電話を取ろうとして、15センチの距離で手を伸ばしたまま亡くなっていたそうで、解剖の結果、8月3日、「不整脈による脳内出血」で亡くなったとされています。

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大女優・大原麗子の壮絶人生!中絶・離婚・うつや病気・整形失敗・貧窮・孤独死・実弟(大原正光)や浅丘ルリ子が語る衝撃事実とは?  まとめ

美しすぎる大女優・大原麗子さんは長年のキャリアを持っているからこそ、プライドの高さやキレイだった自分が老いていくのを受けいられなかった部分もあったのではないでしょうか。

もちろん度重なる病気も助長して性格が変わってしまったのかもしれません。

あまりにも壮絶な人生を送られた大原麗子さん、浅丘ルリ子さんや大原麗子さんの実弟、大原政光さんは、さらに今まで語られていない衝撃的な事を語られるのでしょうか…


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